日本がベトナムに多額のODA(政府開発援助)を出資する本当の理由について

ベトナムの若い人達が浮かばれる世の中にする協力ができれば

ベトナムの若い人達が浮かばれる世の中にする協力ができれば



ハノイリビングの田口です。

今回のお話は、太平洋戦争下で日本軍が行ったベトナムでの過ちについてです。
どうしても暗くなる話題ですので、せめて写真だけでも活気のあるベトナムの被写体を紹介していこうと思います。

これは以前、どなたからか忘れましたが、お聞きした話です。
ベトナムの日本大使館の駐日全権大使が入れ替わり赴任される際、ベトナム政府首脳との面談時に、必ず釘をさされる話があると聞いたことがあります。

  • 一つは、太平洋戦争末期、日本軍がベトナムから大量の米を収奪し、飢餓が見えてきた日本に搬送し続けた為、ベトナムで大量の餓死者を生んだこと
  • 一つは、長きに渡るフランス植民地支配から独立する為、当時の知識人Phan Boi Chau(ファン・ボイ・チャウ)は、科挙に合格していたベトナムの若き英俊達200人を引き連れ、日露戦争に勝った日本に望みを託し渡った(東遊運動)が、日本がフランスと自国優先の「日仏協約」を結んだ結果、ベトナムの若者達を国外追放し、艱難辛苦を味わう目に遭わせたこと」

どちらも、日本が戦時下でベトナムに対して行った罪科です。
この事実を果たして日本国代表のベトナム駐在大使に、毎度毎度念押ししているのかどうか、真意の程は定かではありません。
ただ、ベトナム政府として、恐らく「脈々と引き継いでいかなければならない事実」として捉えているように思います。

後者のファン・ボイ・チャウの東遊運動の話は、「The Partner 〜愛しき百年の友へ〜」というタイトルで、2013年9月にドラマ化されました。
日本とベトナムの国交樹立40周年を記念して、日本のTBSテレビとベトナムのVTVによる、初の共同制作で作られ、両国で同日放送されました。
主演「浅羽 佐喜太郎」役を、東山紀之が演じていましたね。

さて、前者の「大量の餓死者」を生んだこと、これが今日お伝えしたいテーマです。
この稿を書こうと思うに至るまで、考えることが多く、時間が掛かってしまいました。
私達日本人にとって、とても重たいテーマだからです。
しかし、ベトナム人スタッフを使いベトナムで商売をやらせていただく限り、知っておいた方が良いと考えるに到りました。

誠にお恥ずかしい事なのですが、私はこの大戦末期の事実を今まで知らずにいました。
学校の歴史の授業でも、不勉強のせいか聞いた記憶がありません。
知ったのは、歴史に興味を持つ私の友人からメールで貰ったレポートを読んでからです。

神藤吉彦さんという方が書かれた「日越関係の明と暗」という長文のレポートです。
2005年に書かれた少し古いレポートなのですが、戦時下の日本軍がインドシナ半島進駐後、ベトナムで行った行動を、緻密な調査を重ねて書かれています。
また、そのレポート執筆に参考にされた書籍、

早乙女勝元著「ベトナム“200万人”餓死の記録―1945年日本占領下で」

には、当時の生々しい飢餓の状況を映した写真が数多く掲載されています。
古いレポートとは言え、時が過ぎても生々しく、戦時下に蠢く鬼神が眼前に迫ってくるような内容でした。

以下に、神籐さんのレポートを元に、私の考えを述べさせていただきます。

市井のベトナム人女性は、本当によく働きます

市井のベトナム人女性は、本当によく働きます



ここベトナムで、太平洋戦争末期に約200万人もの餓死者が生まれ、その原因に日本軍の統治(1940年以降の進駐とその後の占領)が大きく関与している。
この事実を知っている日本人は果たして何人いるのでしょう。

しかし、忘れてはならないことは、ベトナムの若者達は全員、学校の授業でこの事実に触れるということです。
あろうことか、「ホーチミンの独立宣言(1945年)」にはっきりと書かれているんです。
ベトナム人の学生は全員「独立宣言を勉強して育つ」、この事実を日本人は先ず知るべきだと思います。

ただ、ホーチミンはベトナムでは救世主、英雄です。
果たしてその言葉が全て正確で事実であるかどうかについては、また別の問題になるかと思います。

1862年のサイゴン条約から大戦末期の1945年までの約80年間、ベトナムは「フランス領インドシナ連邦」として、フランスの植民地政策下に組み込まれます。
その過酷な圧政は有名です。
そしてその圧政に耐え抜いた末1945年、革命の英雄ホーチミンが高らかに独立を宣言します。
その宣言文中に、次のような下りがあります。

「日本軍の統治下で、我々は一層苦しくなり、惨めになった。その結果、(中略)クアンチ省から北部にかけて200万人を超える同胞が餓死した。」

私は、ハノイリビングのスタッフに、

「ホーチミンさんの独立宣言に、日本の軍隊がやったことが書かれているんだけど、覚えている?」

と聞きましたが、皆「知らない」と言います。
知らないどころか、

「フランスをやっつけてくれたよ、日本人」

こんな印象です。
確かに1940年に仏印に進駐してきた日本軍は、当時のフランス軍を駆逐します。
でも「良い所だけ」しか話してくれません。

本当に覚えていないのか?

いえ、そんなはずはないんです。
宣言文を一言一句諳んじることはできなくても、「日本軍と200万人の同胞の餓死」とは、彼らの頭の中ではつながっているはずです。
義務教育で徹底的に学ぶんです。
聞いている私が上司であり、日本人なので気を使っているんだと思います。

「200万人の餓死者」。
当時のベトナムの人口は約2千8百万人ですので、全国民の7%強の人が日本軍統治のもとで飢えて死んでいったことになります。
長崎と広島の原爆投下で亡くなった人口の6倍強の数字です。

しかし色々諸説はあります。
200万人全てが日本の責任ではないという意見です。

日越の学者、専門家、有識者の調査により、実際の餓死者は約180万人であったろう、という意見もあります。
そして餓死の原因には次のような要員が絡み合っていると指摘されています。

  1. 天候不順による凶作(1943年、44年のベトナム北部を襲った台風、豪雨による河川の氾濫を含む)
  2. 南部の穀倉地帯から北部への輸送の停止(米軍の攻撃による陸路、海上の輸送路の封鎖)
  3. フランスによって組織化され、それを日本軍が利用した、米の低価格による強制買付制度の横行
  4. 日本軍による米作から麻などへの転作の強要、それによる収穫量の減少
  5. その他、日本軍の政策

日本軍の「行い」が200万人中どれくらいの死者を出すに到ったのか・・・
天候やアメリカの爆撃も起因するとなると、正確な数字などはじき出しようがありません。

しかし・・・安堵などできない歴史の事実が、私達の眼前に横たわっています。

豊かになった市井のベトナム人

豊かになった市井のベトナム人



太平洋戦争末期、日本は極度の飢餓に襲われます。
恐らく大本営とすれば、戦争末期に日本国民の餓死が目前に迫ってくる状態など、全く想定していなかったように思います。

でも普通に考えればわかります。

1942年以後、戦況が急速に拡大し、日本全国の働き盛りの男子が(その殆どが農村から)戦場へ行きました。
結局約720万人の男子が戦場又は軍事機関へ行った結果、国内の農業人口が急激に減り、農作物、とりわけ、高度なノウハウと手作業の生産技術を必要とした主要穀類の生産が激減します。
国内に、コメ・麦の主要穀類が乏しくなり、程なく日本人は女、子供老人でも作ることが出来る芋類、粟やヒエを主食にするようになります。
食料は後に配給制になります。

以前読んだ、浅田次郎さんの「終わらざる夏」という小説に出てくるシーンを思い出します。
空襲激しい戦争末期、小さな子供を預かる若い小学校の女性教師が、空腹に耐えかね砂場の砂を口に入れようとする子供を両手で抱きしめ、真夏の晴天が広がる空を見上げてつぶやきます。

「もう無理です、これ以上・・・子供が耐えられない」

本土決戦を決めた戦争終盤。日本を深刻な飢餓が襲います。
当時の日本政府と軍部の最大の課題は弾薬武器の補給どころか、多分、国民の飢え対策、これが深刻な問題だったと思われます。

その食料不足の極限状態を何とか支えていたのが、ベトナムから送られて来た膨大な安南米(ベトナム米)でした。

安南米は連合軍の魚雷攻撃で輸送が途絶える、1944年半ばまで、夥しい量の米が日本へ送られます。
相当数の日本人がベトナム米のお陰で生きながらえたと言っても過言ではないと思います。

しかしその陰で、ベトナム人に約200万人の餓死という悲惨な犠牲を強いられることになります。

今年も幸福が家族に訪れますように

今年も幸福が家族に訪れますように



この稿を書くきっかけとなった、神籐さんのレポート「日越関係の明と暗」で話されている言葉を、少し引用させていただきます。
太平洋戦争の中期以降の日本軍部の様子です。

「大本営は多分、『可能な限りの米を日本へ送れ』と、インドシナに駐留する日本軍に至上命令を出していたと思います。
命令を受けた現地の日本軍はとにかくがむしゃらにベトナム人からお米を取り上げました。
最後は翌年のための種籾まで取り上げます。その結果の残虐さを示す多数の写真が残っていて、それ等を私は何度も見ましたが目を覆いたくなる悲惨なものばかりでした」

「日本軍が集めた米を大八車に乗せてベトナム人の人夫が運びます。その大八車を子供の突撃隊がナイフを持って襲いかかります。
そして、麻の袋を切り裂きます。
大八車を引く人夫は猛烈な勢いで走ります。すると米が袋の切り口からこぼれて沿道に筋をつくります。
それを大人が待ち構えていて拾いました」

「やがてその米も日本へ運ぶことも出来なくなります。
米軍の潜水艦によって日本の輸送船が次々と沈められたからです。
それでも、日本軍は取り上げた米を、米軍が上陸してくることを想定して「3年間戦えるように」と備蓄します。
その後、保管するところがなくなっても更に米を集め、なんとそれを海に捨てた、と伝えられています」

インドシナに進駐した日本軍は10万人。
そして収奪先のベトナム人は2800万人です。
この人口差で民衆を統率する訳ですから、その手段として「食料を取り上げる」。
ひどい統治です。

「国と国とが生き死にを賭けて戦争をしているんだ。国体を守る為にはきれい事など言ってられなかったはずだ」

様々な歴史観はあると思います。
しかし受ける側の傷は、我々が原爆を落とされた傷と同様、消えることはありません。

生きていく為には何でもやる

生きていく為には何でもやる



ところが驚くべき事があります。
それは、ベトナム政府の対応です。

神籐さん曰く、

「ベトナム政府は明らかに、意図的にこのことを表に出さない、という政策をとっている節が見受けられます」

とレポートで言われています。
結構昔のことですから、今はどうかわかりませんが、神籐さんが東京の駐日ベトナム大使館へ出向き、次のような掛け合いをされました。

「ホーチミンの独立宣言の日本語訳はありますか?」 
「ありません。」
「独立宣言の英語訳はあるでしょうか?」 
「ありません。約100ページの関連文書のベトナム語版ならあります。」
「恐れ入りますが、ベトナム語で結構ですので、その中の『日本軍の占領下で…200万人以上が餓死した』と言う箇所だけ、コピーをもらえないでしょうか?」
「その様なサービスは行っていません。」

最初は「何と不親切な対応だろう、真実を知りたいと思う日本人に対して良い広報のチャンスのはずなのに」と思ったと書かれています。
しかし、善意に解釈すれば、同大使館が、日本人を刺激したり、日本人に暗いイメージを与えるものは伝えない、という方針を採っていても不思議はない、こう考えるようになったと言われています。

その根拠は、やはり日本政府の膨大なODA援助、それも例外的な特別な援助が十数年以上続いているからです。

ハノイやホーチミンには「戦争博物館」というような国が運営する施設があります。
そこには、フランスの植民地時代の圧政の苦しみと、対米ベトナム戦争15年の悲劇を余すところ無く「跡を証す」様々な展示がされています。

しかしです。

日本軍が戦争末期の4年間の進駐と占領、そして約200万人の餓死について、全く展示・記述がないのです。
これは神籐さんも言われていますが、

「この裏には、ベトナム政府の日本人と日本政府に対する遠慮があるのは否めません」

長い間ベトナムは戦争をしていました。
その間、他の東南アジア諸国は、着実に国力増強を図り、外資の技術を導入し、目覚ましい発展を遂げます。
アメリカとの戦争で疲弊しているベトナムを尻目に。

出遅れたベトナムは、この経済力の差を埋める為に、外資の投資を遮二無二受け入れ、利用し、計画経済を起動に乗せる。
それが全てに優先される政策であることは、ベトナムにいると肌で感じることです。

そして日本政府もまた、ODA予算を毎年用意する外務省の歴代の高官と担当大臣は、この「歴史の事実」について前任者から引き継ぎ知らされ、大蔵省(財務省)もそれを認め、内閣府もそれを承知して、破格の援助が継続して行われているのではないか、と思われます。
今のベトナム国内の貸出金利に比べて、破格の低利融資です。

神籐さんはこう締めくくられています。

「私見ですが、このODA援助は、形を変えた賠償金のように思えます」

穏やかな市井の方々が、穏やかに商売をされています

穏やかな市井の方々が、穏やかに商売をされています



ベトナム人は大国のフランスとアメリカに屈することなく跳ね返したことに誇りを持っています。
そして日本に対しては今でも尊敬の対象であり、その技術力に対する憧れも未だ持たれています。

しかし、これは援助の恩恵とは別にして、ベトナム人の方々が学ぶ対象が当初は限られていたこともにも関係しています。
ベトナムを取り巻く大国は当初3つ、即ち中国、アメリカ、日本でした。
中国とは歴史的に非常に仲が悪く、米国とは肉親を失う泥沼の戦いを15年間も続けました。
日本が尊敬の対象になっているのは、これらの国と比較され、消去法で「止む無く」という面もあるということを、我々日本人は謙虚に捉える必要があるかと思います。

最近は韓国もサムスン電子を筆頭に、ベトナム事業への投資を活発化してきています。
ベトナムの総輸出額の20%をサムスン電子の商品で占められているという歪さ。
しかし、これもベトナム戦争時の韓国軍によるベトナム民間人虐殺やライダイハン問題を考慮に入れた動きなのか・・・?
そう勘繰ってしまいたくなるくらいの投資規模です。

我々一般人として、ベトナムにどういう貢献ができるのか。

神籐さんは、ベトナムから収奪されたお米を日本で受けていた戦時中、幼児期を迎えておられました。
「そのお米が入って来た分、配給のゆとりができ、家族が餓死することなく生き延びることができたかもしれない」と述懐されています。

「残された後半の人生を、可能な限り、ベトナム人の為に捧げたいと思っています」

素晴らしい考えだと思います。

戦争時の贖罪を関係国に強いることのないベトナムの姿勢。
その腹の底に横たわる「ベトナム人の真意」は簡単には掴めませんが、「幸せになりたい」という想いは揺るぎないものだと確信しています。

少なくとも一番身近なベトナム人スタッフとその家族が幸せになってもらえるように。
日本人として頑張りたいと思います。

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田口 庸生

田口 庸生 の紹介

初めまして、「ハノイリビング」営業担当の田口(たぐち)です。 日本より初めてベトナムのハノイに着任された日本の皆様、 愛するご家族を日本に残し、初めての「海外単身赴任」をこれから経験される皆様、 快適なハノイでの生活を満喫していただくために、皆様の「お住まい探し」から「入居後のサポート」まで一貫した「窓口対応」を請け負います。 「ベストマッチ」を合い言葉に・・・ どうぞお気軽にお問い合わせください。 お待ちしております。
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